紀元節の意味とは?現在は何年?廃止・復活された理由も解説
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「紀元節(きげんせつ)」って何の事だかわかりますか?
簡単に言えば、初代天皇が即位した日のことです。
ここでは、紀元節の意味や、現在は何年のことで、実は廃止や復活された理由などを詳しく解説いたします。
現代人なら知っているあの「建国記念の日」と関係しているので、ぜひ最後までお付き合いくださいね。
紀元節の意味とは?現在は何年?
紀元節とは、日本書紀や古事記により初代天皇である神武天皇が即位されたことから、祝祭日として定められた日のことです。
現在で考えると、紀元前660年2月11日とされています。
とは言っても、紀元節が制定されたのは結構最近のこと。
明治6年(1873年)に明治政府は、神武天皇の即位をもって「紀元」、そして2月11日を祝日として定めました。
そして戦後、日本国憲法の施行に伴って紀元節は1948年に廃止されることになるのです。
さらにその18年後の1966年、かたちを変えて「紀元節」から「建国記念の日」と制定されます。
翌年1967年から私達も知っている「建国記念の日」は施行され、現在に至るというわけなのです。
紀元節が廃止・復活された理由って?
紀元節が廃止・復活された理由には、まず紀元節を制定した明治6年(1873年)の明治政府と第二次世界大戦、アメリカ合衆国、神社関係、色々な保守団体などが関連しています。
そもそも紀元節の元となっている神武天皇は何者なのかと言うと、神武天皇とは天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫と言われています。
宮崎県で生まれ、天下を治め都をつくるために東征し、大和(やまと)を平定して橿原宮にて天皇に即位したと言われています。
いわば、日本を建国したと言われている人物なのですね。
ただ現代での解釈では、この神武天皇は伝説上の人物であるとされています。
しかし紀元節が制定された当時は明治時代です。
神武天皇が伝説上の人物かどうかということよりも、当時は徳川幕府を討幕したばかりの明治政府は国をまとめなくてはなりません。
そこで紀元節を提唱し、権力を天皇の下に集めることで反乱や政府を覆す事が起きないように、そしてバラバラになってしまった国民を再びまとめようとしたのです。
その手法の一つが、日本書紀と古事記に記されている神武天皇の即位を祝日と定めることだったのです。
神武天皇を神格化したものとし、天皇を中心として国家への忠誠心を高めようとしたのですね。
しかし、第二次世界大戦が起き、結果的に日本は大ダメージを受け負けてしまいました。
そして日本が敗戦した後、GHQ(連合国軍総司令部)は、明治日本の皇室を神のように崇めている思想を崩さないと、戦争時代の軍国主義であった日本が復活するのではないかと懸念したのです。
その結果、紀元節は廃止という運びになっていったのでした。
ところがその後、政党、右翼関係、神社関係、旧職業軍人など色々な人々から、紀元節の復活の意見や各運動なども起こり、なんと9回もの議案提出や廃案を経ることになりました。
そして昭和41年(1966年)に国民の祝日として2月11日は「建国記念の日」となったのでした。
なぜ建国記念の日という名前なの?
紀元節がかたちとしては復活したとも言える「建国記念の日」ですが、なぜこのような名称になったのでしょうか。
まず一つは、現在の歴史学の研究では神武天皇の存在の確証ができないことが挙げられます。
そしてもう一つは、政治的に「記念日」とすることに反対意見があることからです。
つまり簡単に言えば、「研究としても政治的にも、神武天皇の実在がわからないため、日本という国の正確な起源はわからないのだから、記念日と言い切るのはちょっと・・・」という訳なのですね。
このような理由があったため、「建国記念日」とはならなかったのです。
そこで、日本ができたということを国民が想う日という意味を込めて「建国記念の日」と定められたという訳なのです。
まとめ
紀元節は、明治6年(1873年)に明治政府によって定められた、初代天皇である神武天皇が即位した日(2月11日)とされています。
ただし、日本ができた日というような意味合いはあるものの、神武天皇は現代では伝説上の人物とされているため、真偽はわからないのです。
そして戦後一旦は廃止された紀元節は、色々な意見から「建国記念の日」という名前で国民の祝日に生まれ変わりました。
現代の祝日2月11日には、日本という国を想う日としての意味があることを覚えておきましょうね。
