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「菅原道真」は学問の神様として認識している人も多いかと思いますが、実は怨霊だったという話はご存じでしょうか。
今回はなぜ「菅原道真」が怨霊から学問の神様になったのか、またその死因などについて詳しくご説明していきます。
「菅原道真」を祀っている神社もご紹介いたしますよ。
「菅原道真」とは
「菅原道真」とは、845年に文章博士でもある菅原是善の3男として誕生しました。
詩歌に素晴らしい才能を発揮し、漢詩を11歳で読むなど文才に優れた人物で、官吏として出世し、当時の関白であった藤原基経も彼に重要な書類の代筆を頼んでいたと言われているんですよ。
901年、菅原道真が醍醐天皇を退けようとしているという噂が流れ、それを信じた醍醐天皇により菅原道真だけではなく4人の子供も全員流刑になってしまいました。
流刑となった菅原道真が命じられたのは「職員」として認識もされないような役職であり、俸給も無かったとされています。
突然の没落に耐え切れず流刑から2年後に亡くなったんですよ。
死後、朝廷の要人が相次いで亡くなったり、清涼殿と呼ばれる建物が炎上するなど朝廷にとっての不幸が起こり、罪も無いのに無念の死を遂げる事となった菅原道真の祟りだと考えられていたとされています。
「菅原道真」の死因は?
菅原道真の死因は未だはっきりとは解明されていませんが、一般的に有力とされているのは「病死」という説です。
流行病による死とも考えられますが、確たる罪も無いのに流刑にされ誰にでもできるような仕事をおざなりに与えられたことからのストレスによるものと考える人もいるようです。
強いストレスや後悔の気持ちが心の病を引き起こし、その生活によって病気になってしまったのかもしれませんね。
時代背景から「暗殺」という説を唱える人も居ますが、その根拠も明らかにはなっていないんですよ。
なぜ怨霊から学問の神様になったの?
942年に多治比文子という女性に菅原道真が乗り移り、「自分を祀る」という事を強く求めました。
その提案を受けたのは平将門の乱や藤原純友の乱で朝廷内に不安が広がっていた時期ということもあり、朝廷は菅原道真を祀る神社として北野天満宮の建立を許可。
学問で有名な家柄であった菅原一族がその管理にあたり繁栄しました。
生前の菅原道真が文学や学問に優れていたということから、学問の神様だと当時の人々に広く認識されるようになったのがきっかけだとされています。
「菅原道真」を祀る神社
菅原道真をご祭神として祀る神社は日本全国でなんと1万2千社を超えます。
その総本社として受験生達からの人気も高いのが
- 京都市に建立されている「北野天満宮」
- 福岡県太宰府市にある「太宰府天満宮」
の二つです。
学問だけではなく文化芸能にもご利益があるとされており、全国からわざわざ足を運ぶ参拝客も多いんですよ。
どちらも総本社として建てられており、「どちらが上なのか」という議論がされたりもしています。
北野天満宮は後日祀り上げてた地であり、両方とも総本社とされています。
太宰府は道真公の御墓所として唯一無二の聖地「菅聖庿(かんせいびょう)」と称えられています。
余談ですが、太宰府天満宮で人気のお土産「梅ヶ枝餅」はとても美味しいので、もし遠くて行けない方はお家で味わってみてください。
まとめ
怨霊から神様へとまさに大躍進を遂げたのが菅原道真なんですね。
流刑後は閑職へと追いやられてしまいましたが現在は神様として祀られ忙しくしているのではないでしょうか。