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「崇徳天皇」は日本を代表する怨霊の1つとされていますが、なぜ天皇が怨霊になってしまったのでしょうか。
今回は「崇徳天皇」についてエピソードや祀られている神社まで詳しくご説明していきます。
「崇徳天皇」とは
「崇徳天皇」とは、1119年7月から1164年9月まで日本の天皇として君臨していた人物です。
読み方は「すとくてんのう」です。
死後は怨霊となり、そのパワーは日本三大怨霊の1人としても知られているんですよ。
二条天皇と六条天皇の摂政をはじめとして、後白河院に近しいものが続々と崇徳天皇の死後に亡くなり、また安元の大火や治承の大火も崇徳天皇の祟りだと考えられています。
「崇徳天皇」はなぜ怨霊化した?
天皇に即位はしましたが実際の政治は白河院と鳥羽院が取り仕切り、実際に崇徳天皇が何かをやらせてもらえることはなかったそうです。
歌道に専念していた崇徳天皇ですが、全てにおいて自分より劣っている後白河天皇がその後天皇に即位したことで不満を募らせていきました。
深まる対立の中、崇徳天皇が起こした乱が「保元の乱」です。
しかし平清盛や源頼朝などの強者を味方につけた後白河法皇に敗北、その後は讃岐国に流されてしまったのです。
讃岐国へ着き9年間は平穏に過ごしていた崇徳天皇は、京都に戻りたい思いを「自らの血」で書いた書へとしたため、京に送りました。
しかしその書もきっぱりと拒絶されてしまい、その事から怒りと恨みで一杯になってしまったそうです。
自分の舌を自分で噛み切り、その血を使って多くの仏に願文を書くほどの怒りだったんです。
死んでもずっと天下を祟る、国家を悩ませ続けると宣言し、生きたまま天狗のような姿になり46歳でその生涯を終えました。
自分を無下に扱い、挙句の果てに配流にした天下への強すぎる恨みが崇徳天皇を怨霊へと変化させてしまったんですね。
「崇徳天皇」のエピソード
不幸な生い立ち
鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれた崇徳天皇ですが、藤原璋子は白河法皇と愛人関係になっていると噂されるほど評判の悪い女性でした。
その事から「父親は鳥羽天皇ではなく白河法皇なのではないか」と様々な場所で噂されるようになってしまったんですよ。
弟の誕生
本来なら喜ばしいはずの弟の誕生も崇徳天皇にとっては不幸なエピソードの1つとなってしまいます。
1134年悪評高い藤原璋子を退けたあと藤原得子を寵愛した鳥羽上皇。
藤原得子との間に体仁親王を授かります。
白河法皇の子供と噂される崇徳天皇を退位させ、確実に自分の子供である体仁親王を即位させたいと考えるようになった鳥羽上皇は一計を案じます。
崇徳天皇の弟として体仁親王に即位するという儀式を決行してしまいました。
策略にはめられた形となった崇徳天皇は政治に関する実権を完全に失う事になってしまったんですよ。
「崇徳天皇」を祀っている神社は?
福岡県の朝倉市にある白峯神社にて崇徳天皇が祀られています。
崇徳天皇が配流されたあと3年間を過ごした林田と同じ地名であるこの場所にあった美奈宜神社境内の境内に建立されたと言い伝えられているんですよ。
悪縁切りのご利益があるとされており、不幸な生涯を送った崇徳天皇と同じように悩み苦しんでいる人々を救ってくれると日々多くの参拝客が足を運んでいます。
悪縁を切ってくれるだけではなく、美奈宜神社では縁結びの神様ともいわれる大国主大神もお祀りしているので良縁を願う事も出来る神社なんですよ。
まとめ
生い立ちから死にざままで不幸な時を過ごした崇徳天皇。怨霊となってしまうのもどこかわかるような気がしますね。
現在でも100年単位ではありますが崇徳天皇の怨霊を鎮めるための式年祭が開催されているんですよ。