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言葉の意味と使い方

「諦念」の意味と使い方!「諦観」との違いは?|類義語・対義語

「諦念」の意味と使い方!「諦観」との違いは?|類義語・対義語

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「諦念」という言葉をご存知でしょうか。

少し難しい印象の言葉で、あまり日常会話では使われないかもしれません。

文章の中や、かしこまった会話の中では使いますので、よく似た「諦観」との違いも合わせて確認しておきましょう。

今回は、「諦念」の意味と使い方!「諦観」との違いは?|類義語・対義語についてご説明いたします!

「諦念」の意味

諦念

「諦念」は「道理をさとる心」「あきらめの気持ち」という意味です。

「ていねん」と読みます。

「諦」は「諦め(あきらめ)」という字ですし、「念」は「気持ち」ということですので「諦念」はそのまま読むと「あきらめの気持ち」ということになりますね。

また、「諦念」は、道理をわきまえてさとる心のことも意味します。

「諦」には「あきらめる」以外にも「あきらか」などの意味もあり、こちらの方が本来の意味とされています。

ですので、「あきらめ」と言ってもネガティブな意味ではなく、「物事を明らかに見て、迷いを取り除いてあきらめの境地に達する」というような意味になります。

>>「諦観」の意味と使い方!「諦観の念」「諦観の境地」とは?|類義語・対義語

「諦念」の由来

「諦念」はもともと仏教用語として使われていました。

仏教用語では「諦念」を「たいねん」と読みます。

「諦念(たいねん)」は、「世の中の真理に到達した状態の心」ということです。

いわゆる悟り、物事の真理や道理を悟って迷いのない境地に達したという心のことを言います。

仏教では「諦」は「真実を明らかに見る」ということを表していて、今普通に使う「あきらめ」、つまり放棄したり断念したりといったネガティブなあきらめとは違っているのです。

もともと「あきらめる」の語源は「明らかにする」ことであったとも言われています。

こうしたことからも「諦念」がネガティブな「あきらめの心」ではなく「悟って、諦める心」という意味があることがわかります。

「諦念」の使い方

「諦念」は、道理をさとる心、物事の本質を悟って迷わない心ということです。

また、あきらめる心という意味でも使います。

ですが、言葉の意味からすると、放棄する、断念する、嫌になってやめてしまうといったネガティブな意味ではなく、

物事をさとってあきらめの境地に達するという意味合いで使うのが正しいです。

「諦念」はどちらの意味で使うにしても、かたい印象の言葉なので日常の気軽な会話ではなく文章中やあらたまった場面で使う言葉です。

「諦念」の例文

  1. 彼女の表情には諦念がうかがえた。
  2. 彼は修行によって諦念を持つようになった。
  3. 彼らの瞳は諦念に満ちている。
  4. 彼の発言から諦念を感じた。

「諦観」との違いは?

「諦念」とよく似た言葉が「諦観」です。

この二つの違いは

  • 「諦念」は「道理をさとる気持ちや諦める気持ち」
  • 「諦観」は「本質をあきらかに見ること」

となります。

「諦観」も、同じ「諦」の字が使われており、仏教用語で「あきらかに見る」ということを表します。

>>「諦観」の詳しい意味はこちら

どちらも元々は仏教用語であり、日常会話であまり使わない難しい印象の言葉なので混同してしまいがちですが、「念」と「観」の違いがありますね。

「諦念」は「諦」の境地に達する「気持ち、心」を表します。

「諦観」は見て「諦」の境地に達すること、ということを表します。

つまり、物事を「諦観」する心のことを「諦念」と言う、という関係になります。

「諦念」の類義語

「諦念」の類義語には次のようなものがあります。

  • 諦観(本質をあきらかに見て取ること)
  • 達観(真理や道理を見極め、何事にも動じない状態のこと)
  • 観念(諦めて状況を受け入れること)
  • 覚悟(悟ること。あきらめること)
  • 諦め(望んでいることが実現できないと考えて望みを捨てること)

「諦念」の対義語

「諦念」の対義語には次のようなものがあります。

  • 執着(そのことに心が強く惹かれて忘れられないこと)
  • 拘泥(必要以上にこだわること)
  • 執心(何かを手に入れたく思い、それが心から離れないこと)
  • 執念(執着して離れないこころ)
  • 迷妄(道理がわからず、事実でないことを事実と思い込むこと)
  • 模索(手探りで探すこと)

まとめ

「諦念」は「道理をさとる心」や「あきらめの気持ち」という意味の言葉でしたね。

今の感覚でいうと、「さとる」ということと「あきらめる」ということは、全く違うように思えるかもしれません。

ですが、仏教的な意味で「あきらめの境地に達する」、つまり真実をあきらかに見る境地に達するということであると理解するとよいでしょう。

「諦念」は断念してしまうというネガティブな「あきらめ」ではなく、このような仏教的な意味を含んだ「あきらめ」の心ということです。

ぜひ参考になさってくださいね。

最後までお読みくださりありがとうございました!

ABOUT ME
三角 彩子
大学卒業後、出版社にて秘書・経理補助などの職種を経験。 退職後は塾講師、高校国語(現代文、古文、漢文) の添削指導員などを経て、長女を出産後は在宅でライターをしています。 社会人経験や国語の知識を活かし、秘書検定やビジネスマナー、国語などに関するライティングを主に行なっています。
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